インテリア(特に商業施設)の仕事はコマーシャリズムで短命、ただ消費しているだけだと感じたことがあります。
時間をかけて建設し、何十年と建ち続ける建築と比べて、むなしく思えたからです。
そんな話をMS4Dの伊藤さんの結婚式の時にヨコミゾマコトさんと話した事があるのですが、
「形や空間が残ることよりも、その時代にどういうものを創出できたかなんじゃない?」と答えてくださいました。
なるほど、ファッションはone season、雑誌はone month、one week、ヘアーメイクはone day…。
まわりを見渡せば、たえず流動し不変的に存在しえないデザインも多いことに気付きます。
先日、私の事務所の1Fのゴタンダソニック(5TANDA SONIC)で毎週行なわれているTAB Talksを見に行き、ゲストのナンジョウアンドアソシエイツ(現代美術分野における展覧会のキュレーション等を行なう会社)の長田氏がアートやアーティストをみるキーワードとしてこんな事を言っていました。
「普遍性と時代の毒」
不変ではなく「普遍性」。そして今ここにある「時代」。
時代の毒…。
わたしは毒を吐き続ける事が出来るのだろうか…。
2008年6月27日金曜日
2008年6月13日金曜日
大草原の小さな家
2008年6月8日日曜日
思想と革命
私はきわめて右脳タイプの人間です。
聴いた音楽や読んだ本、観た映画や芝居や絵画について「これはこんな感じの作品だ」とほぼ直感的に分析し、ちょっとだけ頭で考えてから頭の中にストックします。
これは趣味に関してのことだけではなく、仕事であるデザインに対しても同じです。いままでたどって来たインテリア、建築を中心とするデザインの経験や思想の感覚的なストックはたくさん持っているのですが、それらを体系的に再構築したり、もしくは歴史的な文脈にそって整理したりすることが苦手です。
話は変わりますが、私は好きな人に好きと言うのが苦手なタイプで、仲間から「好きって言ってレボリューションしろ!」と諭された事があります。それがいつの間にか何でも「レボリューション」という言葉を乱用するようになり、コンペで良いアイデアが思いつくと「レボリューション!」難しい意見を述べたりすると「レボリューション!」というような具合です。
大学入試時の必読書ともいわれる、丸山眞男著の『日本の思想』(1961)にはこんな事が書かれています。
1)日本には西欧のインテレクチュアル・ヒストリーの伝統がないので、日本人は自分達の思想がこれまで辿って来た変遷の過程を体系的・歴史的に再構成するのが苦手であること。
2)そのため、西欧の思想を輸入するにあたっても、その思想が形成された歴史的文脈を無視して自分に理解しやすいところだけつまみ食い的に取り入れる傾向があったこと。
3)よって日本の思想は本来的に「無構造」で、何でもかんでもぶつ切りにして取り込んでしまい、そのぶつ切りされた思想の本来の意味は薄れ、なんでも体制順応的な観念に変貌してしまうこと。
私の頭の中もまったく、無構造のまま雑多なものが同居する“日本的な思想状況”と同じなのであります。
この論文はこんな言葉で締めくくられています。
「雑居を雑種にまで高めるエネルギーは認識としても実践としてもやはり強靭な自己制御力を具した主体なしには生まれない。その主体を私達がうみだすことが、とりもなおさず私達の「革命」の課題である」
私の頭の中に強靭な自己制御力を具した主体をうみだすこと。
好きな人に好きと言うこと。
私の「革命」はまだまだこれからです。
聴いた音楽や読んだ本、観た映画や芝居や絵画について「これはこんな感じの作品だ」とほぼ直感的に分析し、ちょっとだけ頭で考えてから頭の中にストックします。
これは趣味に関してのことだけではなく、仕事であるデザインに対しても同じです。いままでたどって来たインテリア、建築を中心とするデザインの経験や思想の感覚的なストックはたくさん持っているのですが、それらを体系的に再構築したり、もしくは歴史的な文脈にそって整理したりすることが苦手です。
話は変わりますが、私は好きな人に好きと言うのが苦手なタイプで、仲間から「好きって言ってレボリューションしろ!」と諭された事があります。それがいつの間にか何でも「レボリューション」という言葉を乱用するようになり、コンペで良いアイデアが思いつくと「レボリューション!」難しい意見を述べたりすると「レボリューション!」というような具合です。
大学入試時の必読書ともいわれる、丸山眞男著の『日本の思想』(1961)にはこんな事が書かれています。
1)日本には西欧のインテレクチュアル・ヒストリーの伝統がないので、日本人は自分達の思想がこれまで辿って来た変遷の過程を体系的・歴史的に再構成するのが苦手であること。
2)そのため、西欧の思想を輸入するにあたっても、その思想が形成された歴史的文脈を無視して自分に理解しやすいところだけつまみ食い的に取り入れる傾向があったこと。
3)よって日本の思想は本来的に「無構造」で、何でもかんでもぶつ切りにして取り込んでしまい、そのぶつ切りされた思想の本来の意味は薄れ、なんでも体制順応的な観念に変貌してしまうこと。
私の頭の中もまったく、無構造のまま雑多なものが同居する“日本的な思想状況”と同じなのであります。
この論文はこんな言葉で締めくくられています。
「雑居を雑種にまで高めるエネルギーは認識としても実践としてもやはり強靭な自己制御力を具した主体なしには生まれない。その主体を私達がうみだすことが、とりもなおさず私達の「革命」の課題である」
私の頭の中に強靭な自己制御力を具した主体をうみだすこと。
好きな人に好きと言うこと。
私の「革命」はまだまだこれからです。
2008年6月3日火曜日
In the kitchen
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